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二岡が引退会見「完全燃焼できた」

 日本ハムから戦力外通告を受けていた二岡智宏内野手(37)が9日、千葉・鎌ケ谷の2軍施設で会見を開き、現役引退を表明した。プロ15年間を「完全燃焼できた」と、涙はなく、区切りをつけた。98年に逆指名のドラフト2位で巨人に入団。08年オフに移籍した日本ハムでは主に代打の切り札として活躍し、2球団で数々の記録を残した。今後は未定で、希代のバットマンは笑顔で現役生活に終止符を打った。

 勝負師の仮面は、もう捨てていた。会見場に現れた二岡の表情は柔らかかった。約50人の報道陣の前で、すがすがしく現役引退を宣言した。

 二岡 昨シーズンをもちまして、現役の方を引退させていただきます。ジャイアンツで10年、ファイターズで5年。たくさんの人々に支えられて、15年間の現役生活をまっとうできました。ありがとうございました。完全燃焼できました。

 涙は、ない。逆に少し、笑みがこぼれた。納得の決断だった。昨年10月に日本ハムの戦力構想から外れた。現役続行を希望し、他球団からの連絡を待った。「年末の球団の仕事納め。ここで(オファーが)なかったら、やめようと思っていた」。思いは届かなかった。仕事納めだった昨年12月27日、心の中で現役生活に区切りをつけていた。

 巨人、日本ハムを渡り歩いた15年。原動力の1つとなっていたのは、天国にいる父清司さん(享年51)だった。

 二岡 高2の時、交通事故で亡くなった。自分の試合を見に来る時だった。ずっと引っかかっていて、自分のせいだと思っていた。お墓の前で現役を終えると報告して、少しですが償えたのかなと思った。

 93年10月2日に起きた悲劇だった。当時、二岡は地元・広島の名門、広陵で2年生ながら三塁手のレギュラー。その日は、センバツ出場をかけた秋季広島県大会準決勝。応援に来てくれるはずだった父は、交通事故に遭った。意識不明の重体になり、息を引き取った。自分の試合が引き金だったと、ずっと罪悪感があった。だからこそ、プロで活躍することが親孝行だった。

 胸に秘めた使命を、果たしてきたプロ生活だった。巨人時代の00年9月24日中日戦(東京ドーム)では、リーグ制覇を決めるサヨナラ本塁打。02年は日本シリーズMVPを獲得。06年4月30日中日戦(同)では、2打席連続満塁本塁打を放った。日本ハム移籍後も勝負強い打撃で、主に代打の切り札として貢献。登場曲「スカイ・ハイ」にのって出てくる姿は球場を大きく沸かせた。

 下半身の慢性的な故障と闘ってきたが「ケガをする、しないは、プレーする中で歯止めが利かないこともある。ケガが多かったことは悔いがない」と話した。今後は未定だが、指導者願望があり、古巣巨人の関係者にも第2の野球人生について相談している。将来的なコーチ業に向け「もっと勉強したい」。その目は未来を見据えていた。【木下大輔】
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ハム1位渡辺は二岡目標 背番23継承だ


 日本ハムの新旧背番号23の運命が、一瞬だけ交わった。ドラフト1位渡辺諒内野手(18=東海大甲府)が9日、2軍施設のある千葉・鎌ケ谷の「勇翔寮」に入寮した。この日、同寮の食堂で引退会見を行った二岡と、すれ違った。「巨人時代から憧れていた選手。(背番号を受け継ぐことに)複雑な気持ちはありますが、二岡さんのように、しっかり活躍できる選手になりたい」。プロの宿命とはいえ、偶然シンクロした明と暗。神妙な表情で、決意表明した。

 茨城県出身。巨人ファンとして育った。遊撃のスター選手だった二岡のプレーに、目を輝かせた。「逆方向にすごい打球を飛ばす。3拍子そろった選手というのが目標でした」。リトルリーグで硬式野球を始めた小学4年の時、最初に買ったグラブも、もちろん二岡モデルだ。「守りにしても、打つほうにしても、まねしようと思ってもできなかった」。ずっと、夢であり、目標だった。

 高校通算39本塁打の打力に加えて、俊足強肩の逸材は、高校野手ナンバーワンの呼び声高い。年末年始も体を休めたのは元日だけ。野菜中心のメニューを心がけ82キロあった体重を79キロに絞るなど、グラウンド外でも努力を怠らなかった。

 この日、入寮を済ませた同期7人とともに明日11日から始まる新人合同自主トレで汗を流す。「ランニングにティー打撃。やれることは、すべてやってきた」。背番号23に恥じない選手に−。強く心に刻み、プロ選手としてのスタートを切る。【中島宙恵】
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